ブラッシングを嫌がる猫が逃げるとき、猫が拒んでいるのは毛に触られることだけではない。手に持った道具、抱え込むように固定されること、そして一回が長すぎること。多くの場合この三つのどれかで、触られること自体はそこまで問題ではないことも多い。だから最初に短くするのは猫との距離ではなく、一回の長さのほうになる。素手で30秒、猫が自分で選んだ場所、逃げたら追わない。この三点を先に決めてから、ブラシを順番に登場させる。
私がこの順番に行き着いたのは、遠回りをしたからだ。夜、部屋の照明を落として、猫がソファの肘掛けで丸くなっていた。私は引き出しからブラシを出して、その背中に一度だけ当てた。猫は音もなく降りて、こたつの下へ入っていった。私はしゃがんで、こたつの下に手を伸ばし、もう一度だけ、と思った。翌日、ブラシを手に取った時点で猫は部屋を出るようになった。
あのとき起きたのは、猫がブラシを嫌ったことではない。追いかけたことが、ブラシより強い情報になった。逃げても終わらないなら、猫が次に選ぶのは「逃げる」ではなく「隠れる」か「爪を出す」になる。嫌なものは、追ってくるものに変わる。
最初の一週間は、ブラシを出さない
猫がいつも寝ている場所のそばに、静かに座る。正面からではなく、少し斜めの位置のほうがいい。触るのは、もともと触らせてくれる場所だけ。肩から背中の前半分までで、尻尾の付け根とお腹は後回しにする。手のひらで二、三回撫でて、時計を見る。30秒が来る前に手を引く。
目標は撫でることではなく、「手が来て、何も起きずに手が引く」という順番を猫に覚えてもらうことだ。嫌なことが起きない、という経験だけが次の段階の材料になる。うまくいった日に欲張って長くやると、その材料が一度に消える。
場所と時間帯は、猫の側に決めさせる
自分の定位置でやる。日当たりのいい畳の上、こたつの中、ソファの端。抱き上げて膝の上に載せるのは避けたい。膝の上は逃げにくい。逃げ場のない場所でおとなしくしているのは、慣れたのではなく固まっているだけのことがある。いつでも立ち去れる状態で試すほうが、猫の本音が読める。
時間帯は、食後で眠くなってきた頃がやりやすい。遊びの直後もいい。帰宅直後、餌の前、来客のある日は避ける。同じ30秒でも、選ぶ時間で意味が変わる。
逃げた回は、そこで終わりにする
猫が立ち上がって歩き出したら、その回は終わり。追わない。手を引いて、別のことをする。十分後にもう一度試すのは構わないが、同じ流れで追いかけてはいけない。
二回続けて逃げられたら、その日は諦める。三日空けても構わない。焦って回数を増やすと、逃げるまでの時間がどんどん短くなっていく。
手、ブラシの背、ひと掴き
素手で30秒が三日続いたら、ブラシを出す。ただし毛の面ではなく、背中側を手と同じように当てる。平らな面は、手の感触に一番近い。ここでも30秒で引く。
ラバー製のもの、ピンの細いもの、櫛。道具の種類を変えても順番は変わらない。最初から毛を梳こうとしないことだけは共通だ。
背中側が通ったら、毛の面で背中をひと掴き、ふた掴き。合格のサインは耳と尻尾で見る。耳が横に倒れていないか、尻尾の先が動き始めていないか。動き始めたら、そこが今日の終わり。暴れてからやめるのではなく、まだ穏やかなうちにやめる。
この「まだ足りないくらいでやめる」が一番難しい。調子がいい日ほど、もう少しやれる気がしてくる。そこで足した分が、翌日の後退になる。換毛期は抜け毛が増えて、少しでも多く梳きたくなる時期だが、そこで欲張ると振り出しに戻る。うまくいった日は、うまくいったところで閉じる。
触られること自体が難しい猫には
手を近づけただけで体が固くなる猫もいる。長毛種で毛玉ができている、爪切りをしないといけない、そういう場合は一人で何とかしようとしない。二人がかりで、一人が頭のほうを支え、もう一人が片側だけを短時間で済ませる。あるいはタオルで体を包んで、出すのは頭だけにする。この形は、暴れる猫を押さえつけるためではなく、短時間で終わらせるために使う。終わったらすぐにほどく。
包むほうも、最初は十秒でいい。包む、ほどく、いつもどおりに戻す。これを繰り返すと、包まれることが「すぐ終わる」と結びついていく。猫が自分から出てこようとするまでは、一回を短く、回数を少なく。
全身をブラッシングできるようになるより、大事なこと
すべての猫が全身を梳かせてくれるようになるわけではない。背中は平気でも、お腹と尻尾の付け根は最後まで嫌がる、という猫は多い。長毛種で毛玉が皮膚を引っ張るほどひどいときは、無理にほどかず、トリミングの手に任せたほうがいい。目指すのは、きれいに梳き終えることではなく、体に触れられる状態を保つことだ。
それは、爪切り、キャリー、通院のときに効く。ブラッシングの練習は、実は「触られる練習」の一部で、毛のためだけのものではない。
30秒という短さは、本番の短縮版ではない。これ自体が練習の中身で、続けることより、終わりにすることのほうがずっと仕事をしている。