キャリーを嫌がる猫が災害時にすっと入れるようになるかどうかは、その日の抱き方や押さえ方では決まりません。キャリーをしまわずに部屋の床へ出しっぱなしにして、毎日の食事の一部をその中で与え、扉を閉める練習を数秒から始めて数週間かけて積む、という順番で決まります。特別な道具も、猫を押さえつける技術も要りません。要るのは、進める順番と、一度に二段も三段も進めない我慢です。
朝、洗濯機の横の床にしゃがんで、小皿をキャリーの入口の内側に置きます。カリ、と一粒かむ音がして、猫の頭が半分だけ中に入る。しっぽの先は外に出たまま、耳だけ動いています。私は動きません。ここで立ち上がると、この数十秒が台無しになるからです。キャリーは扉を開けたまま、洗濯機の横に半年近く置いてあります。来客はたいてい「こんなところに」と笑っていきますが、うちではこれを避難袋より大事な道具だと思っています。
しまってあるキャリーは、それだけで合図になる
考えてみれば、キャリーが部屋に出てくるのは、たいてい嫌なことの前でした。病院の日、移動の日、ワクチンの日。だから猫にとってキャリーは入れ物ではなく、合図です。合図を消す方法は一つしかなくて、出ている時間を長くする。それだけです。
最初の三日は近づきません。一週間、誰も触らない日が続くこともあります。それでいい。近づかないことと、嫌がることは別の話で、こちらから近づけなければいいだけです。私がやったのは、掃除のときにキャリーの横を普通に通ることくらいでした。
食事の一部を、入口の内側に置く
毎日の餌を全部キャリーの中で出す人がいますが、私はおすすめしません。食べない日が来ると、練習ごと止まるからです。うちは朝の一回分の三分の一だけを、キャリーの中の小皿に移しています。残りはいつもの場所。猫には「あっちでも食べられるし、こっちでも食べられる」くらいに思っていてもらえれば十分です。
皿の位置は、入口のすぐ内側から始めます。奥まで置くと入らない。二週間かけて、指一本ぶんずつ奥へ動かしました。カリカリという音がキャリーの中から聞こえるのが効いていて、うちの猫は音で来ます。音と場所が結びつくと、こちらが何も言わなくても足が向くようになります。
敷きものは、洗濯物と一緒に回したタオルです。新しいタオルはにおいがしないので、あまり意味がありません。人間には無臭でも、猫には違いがあるらしく、変えた日に一度だけ入るのをやめました。
扉を閉めるのは、最後の段ではない
ここが、いちばん誤解されているところだと思います。多くの人は「入れるようになってから、扉を閉める」と考えます。順番としてはそうなのですが、猫にとっては、入ることと閉まることは別の出来事です。だから閉める練習は、入る練習が終わってからではなく、入れるようになった直後から、独立した段として始めます。
最初は三秒です。閉めて、三秒数えて、開けて、餌を一粒。閉まる音と、開いたあとにいいことがある、という順序だけを覚えてもらいます。五秒、十秒。秒を数えるのは人間の側の仕事で、猫は数えません。
閉めているあいだ、私は洗い物をひとつ片付けます。じっと見つめない。猫から見て「閉まっている時間は退屈な時間」になるのが理想で、退屈なら鳴き続ける理由がありません。
ひとつだけ、やってはいけないことがあります。閉めた直後に鳴かれて、すぐ開ける。これを一度やると、閉まる=鳴けば開く、という学習に置き換わります。数秒で開けるのは、鳴く前です。鳴き始めてから開けると、順番が逆になります。
持ち上げる、玄関まで歩く、そして戻る
扉が閉まったまま十秒待てるようになったら、持ち上げます。底を両手で支えて、床から五センチ。三秒で下ろす。うちの猫はここで初めて声を出しました。床が離れるのが、閉まるのとはまた別の出来事だからです。
慣れたら、廊下を五歩。次は台所まで。その次は玄関まで。ここで大事なのは、玄関に着いたら終わりにしないことです。玄関でキャリーを開けて猫を出すと、玄関が「解放される場所」になります。玄関まで行って、また部屋に戻る。往復にします。玄関は通り道で、終点ではない、と体で覚えてもらうわけです。
歩き方は、かかとから静かに置く。キャリーは振り子になるので、歩幅を小さく、一定に。走ると揺れが増えて、そこで終わります。私の場合、台所までの往復ができるようになるまでに三週間かかりました。焦って歩幅を広げた日に、振り出しに戻ったこともあります。
動かすときだけ、上に薄い布をかける
外を歩くときや車に乗るとき、キャリーに薄い布をかけると、猫の視線が減って静かになります。ただし、かけっぱなしにしないでください。ずっとかかっていると、布をかけること自体が合図になって、布が出た瞬間に身構えられます。動かすときだけ、です。
完全に暗くする必要はありません。前が開いているくらいで十分。うちは洗濯バサミで前を留めて、視界を半分にしています。下ににおいのついたタオルを敷いておくと、なお落ち着きます。これは効く日と効かない日があるので、絶対とは言えません。うちの二匹目は、布をかけてもかけなくても同じでした。
二人でやるなら、役を決めておく
災害の日に、一人で猫とキャリーを同時に扱うのは、思っているより難しいです。だから、誰がキャリーを持つか、誰が猫を持つかを、ふだんから決めておきます。うちは私がキャリー、家族が猫です。
二人だと、驚くほど早いです。一人がキャリーを支えて動かないようにして、もう一人が猫を両腕で支えて入口へ導く。一人でやると、猫が踏ん張った時点で両手がふさがって、キャリーのほうが倒れます。
注意したいのは、この連携を本番で初めてやらないことです。練習の段階から二人でやっておかないと、いざという時に声がぶつかって、いちばん遅いやり方になります。
大きさは「立てるか」「向きを変えられるか」
避難用のキャリーを選ぶときの基準は、デザインでも軽さでもなく、猫が中で立てるか、向きを変えられるかです。避難所に着いてから開けるまで、何時間もかかることがあります。横になれるだけの空間では足りません。この基準でいくと、いちばん小さいソフトタイプは候補から外れます。普段の通院に使っている小さいもので練習して、いざという時に大きいものへ、では間に合いません。練習も本番も同じものを使います。
短く、何度も。できなかった日は数えない
これは学習なので、一回の長い練習より、短いのを何度も、のほうが効きます。一分で終わる日が続いて構いません。大事なのは、週の数を数えること。三週間、四週間。一日サボったところで、積んだものは消えません。
うまくいかない日は、一段戻ります。扉を開けたまま食事だけの段に戻る。戻るのは失敗ではなくて、階段を上る途中で蹴つまずいた段を踏み直すのと同じことです。
揺れた朝に、部屋の景色が変わっていないこと
災害の時にいちばん変わるのは、猫ではなく人間のほうです。人は速くなる。声が大きくなる。猫はその速さを読んで、こちらが思っている以上に先に隠れます。だから練習のときにゆっくり動くのは、猫のためであると同時に、自分のための訓練でもあります。
キャリーを玄関に置いておく人もいます。災害時には手早くて正しい判断ですが、日常の練習には少し不利です。玄関は「出て行く場所」で、そこにキャリーがあると、キャリーは外出の道具のままになります。うちは部屋に置いて、いざという時に玄関まで運ぶ形にしました。どちらが正しいという話ではなく、置き場所と練習量のどちらを取るか、という選択です。
半年たったある朝、建物がきしむ音で目が覚めました。猫は洗濯機の横にいました。キャリーの扉の前で、ちょっと首をかしげて。私は扉を閉めて、タオルをかけて、玄関まで歩きました。特別なことは何もしていません。その日までに、同じ動きを二百回くらいやっていただけです。