猫の爪痕は退去時にどこまで負担?賃貸原状回復の一般知識

目次
  1. 傷はひとつではない。擦れ、引っかき線、めくれ
  2. 契約書は、退去が決まった日ではなく一か月前に読み直す
  3. 写真は証拠ではなく、会話の資料として撮る
  4. 貼ってあるものを、剥がす日のことを考えて貼る
  5. ガイドラインは法律ではない
  6. 立会いの日、最初に口を開く

退去時に猫の爪痕がどこまで負担になるかは、法律で一律に決まっているわけではない。国土交通省が公表している原状回復のガイドラインが示す「通常損耗」と「故意・過失による損耗」の分け方、契約書のペット条項がどう書かれているか、そして退去までの残り時間で何を記録し、何をどう伝えるか。この三つが重なったところで決まる。だから退去前にできるのは、費用を予測することではなく、壁の前に立って、普通に暮らしていれば付く傷と爪で付いた傷を、手で分けておくことだ。

西日の入る時間に、猫塔の後ろの壁を見た。正面から眺めていたときには気づかなかった縦の擦れが、斜めの光で浮かび上がる。体をこすりつけた跡だ。その数センチ横に、爪が引っかかって白い下地がのぞいている線が二本。同じ壁の上に、性質の違う傷が並んでいる。ここで私はいったんスマホを置いた。この二つを一枚に収めてしまうと、あとで全部を「爪痕」という一語で説明することになる。それは私が説明を雑にしているという話であり、同時に、相手が判断できなくなっているという話でもある。

傷はひとつではない。擦れ、引っかき線、めくれ

壁を見ていくと、猫が付ける傷はおおよそ三つに分かれる。体が当たって黒ずむ、テカる。爪が走って線が入る。浅いものと、下地まで届くものがある。そして表面がめくれて垂れる。三つ目は触れば分かる。指で軽く押すと、ぱり、と乾いた音がして浮いている。

国交省のガイドラインは、通常の使用や経年変化による傷みは貸主側、故意・過失による傷みは借主側、という枠組みで整理している。この枠組みに自分の壁を当てはめると、擦れや日焼けによる変色は通常損耗側に寄り、爪で引っかいた線やめくれた部分は「そうではないもの」として見られやすい。ただしこれは線引きの考え方であって、個別の結論を決めるものではない。そこは先に置いておく。

ここで一つ引っかかる。猫に故意も過失もない。だからペット可の物件では、通常損耗の枠ではなく、ペット条項という別の入口から扱われることが多い。私が読んだ契約書には、ペットによる損耗は入居者の負担とする、という短い一行があった。書き方は物件ごとに違う。故意・過失によるものに限っているものもあれば、ペットによるものはすべて、と広く書いているものもある。だから外から「猫なら通常損耗です」「猫なら全部負担です」と断言することはできない。

見る場所にも癖がある。柱の角、ドアの枠、巾木、襖。猫は背伸びをして引っかくので、傷は似た高さの帯に集まる。部屋を一周して、その帯だけを目で追っていくと、拾い漏れが減った。床も見る。カーペットなら、爪でパイルが引き出されて、毛羽立った方向が揃っている部分がある。

契約書は、退去が決まった日ではなく一か月前に読み直す

読むべきは三か所だ。ペット条項、退去時クリーニングの特約、原状回復に関する特約。退去の一か月前に付箋を貼って、そこだけ何度か読む。立会いの当日に初めて知るより、一か月前に知るほうが、まだ動ける。

クリーニング特約に消臭が含まれるかどうかは、書き方ではっきりしていることもあれば、読み取れないこともある。読み取れないときは、退去の前に管理会社へ「消臭はどこまで含まれますか」と聞いておく。これは交渉ではなく確認だ。聞いた内容は手帳に日付ごと書いておく。当日、同じ説明をもう一度聞き直さずに済む。

爪とぎ対策を講じること、という条項が入っている契約もある。私はこれを入居時に流して読んでいた。爪とぎの位置を一つずらしていただけで、壁の帯の傷はだいぶ減ったはずだ、と退去前に思った。契約書は退去のためにあるのではなく、住んでいる間に読むためにある。

写真は証拠ではなく、会話の資料として撮る

撮り方には少しコツがある。同じ位置から、日付が入る設定で、引きの一枚と寄りの一枚。引きは「どの壁か」が分かるため、寄りは「どのくらいか」が分かるため。寄りの一枚には手のひらか定規を添える。フラッシュより、斜めから入る光のほうが傷は写る。夕方の低い日差しは、私にとっては嫌な時間だったが、撮影の時間でもあった。

入居時の写真が残っていれば、その時からあった傷は会話から外れる。これが大きい。争点を減らす作業であって、勝つための作業ではない。スマホのアルバムを入居日まで遡って、壁と床の写真を探した。なかった部分は、記憶で補わずに「写真なし」として扱った。

撮りながらメモもした。爪とぎを置いた位置、いつからそこを登るようになったか、猫を迎えた月。傷そのものより、傷がいつからそこにあるかのほうが、私は説明に使った。

貼ってあるものを、剥がす日のことを考えて貼る

爪ガードや壁パネルは、貼って終わりではない。剥がす日が来る。粘着で貼るタイプは、剥がすときにクロスごと持っていくことがある。私の部屋では、長く貼ったままにしていた部分の端が、剥がした瞬間に白く残った。傷を隠すために貼ったものが、別の傷を一つ増やしただけだった。

契約で原状変更が制限されている場合もある。貼ったまま退去するのか、剥がしてから見せるのか。どちらが扱いやすいかは契約と相談次第だが、少なくとも剥がしたあとの状態を自分で見ておかないと、当日に初めて知ることになる。私なら、剥がすのは立会いの一週間前、明るい時間に、写真を撮りながらやる。

ガイドラインは法律ではない

これは法律でも、裁判の基準でもない。原状回復をめぐる会話で参照される共通の言葉だ。だから「この費用は払いません」と言うための道具にはならない。使えるのは、「なぜこれを通常損耗だと考えているか」を説明する場面である。

線引きの理由を自分の言葉で言えると、会話が傷そのものに戻ってくる。金額の話だけが先に走らない。実際にどうなるかは契約と協議で決まる、という前提ごと、こちらが持っておく。

立会いの日、最初に口を開く

当日、担当者が部屋に入る前に、私は玄関で印刷した写真を渡して、順番に案内した。爪の跡はここです。これは入居のときからありました。先に出す。探される前に出す。隠すより短い。これは私の実感でしかないが、少なくとも気持ちの上では、部屋を案内する側でいられた。

退去の準備は、勝つ準備ではない。曖昧なものを減らす準備だ。ガイドラインの言葉を知っている効き目は、交渉の場ではなく、まだ何も始まっていない部屋の中で出る。壁の前に立って、傷を分ける。それだけのことに見えて、退去の日までの空気はけっこう変わる。

猫の爪痕

執筆者について

猫の爪痕

猫と暮らす年月が長くなり、爪とぎの跡や換毛期の抜け毛が部屋の景色に溶け込んでしまった人たちです。多頭飼い、引っ越し、シニア猫との暮らしをそれぞれに経験しながら、猫種ごとの性格や手入れの重さを日々の暮らしの中で見てきました。

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